エディー・ジョーンズ “BEAT BOKS(南アフリカを倒せ)”

2019年9月13日

▼エディー・ジョーンズ 歴史を変貌させたプロフェショナルな人【目次】

    1. エディー・ジョーンズ 歴史を変貌させたプロフェショナルな人
    2. エディー・ジョーンズ(Eddie Jones)プロフィール
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エディー・ジョーンズ 歴史を変貌させたプロフェショナルな人

いつでも控えめに見える笑い顔をたたえる名将ですが、
目標を成し遂げるには妥協を受け入れない頑強さは、たぶん右に出るものは見当たらない。

それから日本人も含んだ歴代日本代表指揮官で、エディー・ジョーンズくらい、
日本人の力強さを熟知し、弱さを知りつくしたコーチもいませんでした。

「これから日本代表のジャーニー(旅)がスタートします」。

自分からこのように発言してエディー・ジャパンが動かしたのが2012年(平成24)。
このような敏腕コーチと日本代表の数奇な旅は1996年(平成8)からスタートする。

ラグビーワールドカップ第3回南アフリカ大会1995年(平成7)の惨敗の後に就任した山本巌監督が、元オーストラリア代表グレン・エラーと一緒にコーチに招聘したのが日本人の母親である名の知られていないオーストラリア人、エドワード・メンジー・ジョーンズです。

この年から東海大で、人生初のプロコーチのキャリアをスタートしたエディー・ジョーンズは、日本でプロ指導者の身分での第一歩を歩みだします。

その時代の日本は、まだまだ"昭和"のラグビーがありありと止どまっていたのです。

トレーニングは走って、ぶつかって、ウエートトレーニングで筋肉をつける、
その一方で、エディー・ジョーンズが日本代表合宿で行ったセッションは、
新しいラグビーのヒントに満ちていたんです。

ブレイクダウンでは、相手のどんなところにヒットして、どのようにして自分の
体をコントロールするというのは、どうボールをリリースするつもりか。

バックアップする選手は、どのような姿勢でラックに入り込むつもりか。
合理的に進んでいくセッションに、新しいラグビーコーチングの可能性を感じさせます。

残念でありますが1997年(平成9)の平尾ジャパンスタートと時を同じくして
エディー・ジョーンズは代表コーチから離脱したが、サントリー、
ACTブランビーズと指導者の身分での能力を開花させた。

ボールを継続し続け相手防御の破綻を突くシークエンス・ラグビーを完璧にやって、
2001年(平成13)にはブランビーズをスーパーラグビー初制覇へ導いた。

オーストラリアのチーム、指導者となって初めての経験で栄光に輝いた。

同年にオーストラリア代表監督に就任してチャレンジした母国オーストラリアの
ラグビーワールドカップ第5回オーストラリア大会2003年(平成15)は準優勝。

シドニーでイングランドに屈しての準優勝に対しては賛否が発生したが、優勝は困難であると噂されていたその当時のワラビーズを決勝まで導いた手腕は賞賛に値します。

エディー・ジョーンズのズバ抜けた資質の1つは「学ぶ」流儀。

エディー・ジョーンズのコーチの立場でのベースは、ボブ・ドゥワイヤー、ロッド・マクィーンというオーストラリアを象徴する指導者のコーチングですが、決して無意味でないと見極めれば、ジャンルも地域も無関係に、アドバイスを求めるために出向きます。

これまでは阪神タイガーズファンを"公言"してたというのに、
原辰徳監督率いる巨人の最強時代には宮崎の春季キャンプを視察。

FCバルセロナ、バイエルン・ミュンヘンへの最強時代を築き上げたジョゼップ・グアルディオラ監督に話を聞くのにヨーロッパに飛び、イタリアの名門ACミランなどトップクラブも視察。

常勝軍団のクラブハウス、スポーツ施設であるとか環境面の取り組みを習得した。

2007年(平成19)に南アフリカ代表のアドバイザーとなって、ラグビーワールドカップ
第6回フランス大会の優勝に貢献までをサクセスストーリーの第1章としたら、
第2章は2012年(平成24)の日本代表ヘッドコーチ(HC)就任で幕を開けていく。

エディー・ジャパンの始動前に、ワールドカップ8強入りといった目標と、
「アタッキングラグビー」というようなシンプルで的確なスタイルを与えられた。

攻撃的なラグビーを志すエディー・ジョーンズのこだわりと、
日本選手の持っている強みを体現したスタイルは、どんな人も受け入れ易いものでした。

しかしながら、そのラグビーを体現することを考えて選手に過酷なまでに求めた
「ハードワーク」もエディー・ジャパンの決定的なキーワードでした。

パワーや経験値でジャパンよりも高い相手と対抗するためのフィジカル強化と、
走り突破するための運動量。

このキーポイントとなる武器を手に入れたくて、2015年9月に開幕するラグビーワールドカップ第8回イングランド大会から逆算してみると、残っている時間は足らなかった。

鍛え上げる時間を捻出するために、強化の本拠地になった宮崎市での合宿では、
明け方5時、6時台からの猛練習を選手に要求した。

3部、4部練習はあたり前。高校時代の"しごき"というような毎日に、
選手は合宿の練習後には来る日も来る日も愚痴を口走っていた。

けれども、一人残らずその必要性を認識していたから、
歯を食いしばりながらもハードワークを耐え忍んだ。

エディー・ジャパンの成功を後押したもう1つのキーワードが「マインドセット」だった。
「何がおかしんだ!笑うレベルの試合じゃないだったろう!」。

エディー・ジョーンズの怒声が響き渡ったのは、
2012年6月20日に行なわれたフレンチバーバリアンズ戦後の記者会見場であった。

フランス・リーグの選抜軍に21-40と負けてしまった後の会見で、
苦笑いを見せた廣瀬俊朗主将(当時)や報道陣を睨みつけた。

負けず嫌いだと言われる指揮官の性分も原因ではありましたが、敗れても心底悔しがらない、敗れて当たり前なのだというその時代の日本のムードが許せませんでした。

チームに誇りを持つとは、エディー・ジョーンズから見れば前向きに勝利を放棄しない。

会見での激怒も、勝利へのこだわりを持ち、
桜のジャージーへのプライドを日本代表に抱かせることを願っての演技だったのです。

2013年6月のウエールズ第2戦、2014年6月のイタリア戦の金星などによって、
強豪国も超越するマインドも大きな変化を起こした。

強豪国も超越する尋常じゃない猛練習も、選手にプライドを浸透させた。

エディー・ジョーンズのハイライトを向かえたラグビーワールドカップ
第8回イングランド大会2015年(平成27)の南アフリカ戦。

歴史に残る勝利も称賛されるが、それだけではなく評価するべきは、
4年間のチャレンジの旅で挑んできたということを、選手が明確に体現したことなのです。

頑強な南アフリカ人に立ち向かい、失敗の可能性をマインドセットでボールを動かす。

最後には、エディー・ジョーンズすらもドロー狙いでオーケーにした同点PGの司令を、
選手が突っぱねての逆転決勝トライ。

勝利を何があってもギブアップしない指揮官の不屈の魂は、
確実に日本代表選手の胸に縫われた桜の刺繍に染み込んでいたのです。

エディー・ジョンズは、2015年ワールドカップ後になっても、毎年指導者セミナーを
開催するなど、ストイックなまで日本ラグビーとのコミュニティを保ちます。

▲エディー・ジョーンズ 歴史を変貌させたプロフェショナルな人【目次】

エディー・ジョーンズ(Eddie Jones)プロフィール

イングランド代表 HC。
1960年(昭和35)1月30日誕生。59歳(2019年)。
指導歴
東海大コーチ:1996年(平成8)日本代表の招聘コーチ時代それまで高校の教務職についていたけど新たに指揮にあたった
ブランビーズ HC→豪州代表 HC→南アフリカ代表 TA→サラセンズ HC→サントリー GM/HC→日本代表 HC

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エディー・ジョーンズ 歴史を変貌させたプロフェショナルな人
出典元:https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00692/

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