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平尾誠二のフィールドを駆け抜けた軌跡を辿る

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高校生、大学、社会人と駆け抜けたフィールドでことごとく頂点を極めたスター。

社会人で神戸製鋼を初優勝に導いたのは平成元年。

引退した後は史上最年少34歳で日本代表監督
(ラグビーワールドカップ1999年第4回ウエールズ大会)に就任、
それ以後もラグビー界をリード続けていく。

▼平尾誠二のフィールドを駆け抜けた軌跡を辿る【目次】

  1. 平尾誠二平成年表
  2. 平尾 誠二(ひらお せいじ)プロフィール

平尾誠二平成年表

1989年(平成元) 日本代表主将となってスコットランド代表に勝利する(26歳)
1991年(平成3) 第2回ワールドカップ出場(主将)。ジンバブエ戦でW杯初勝利
1994年(平成6) 日本選手権7連覇に成功。その2日後、阪神・淡路大地震が発生
1995年(平成7) 代表復帰、第3回W杯に出場。
アイルランド戦が代表におけるラストマッチに
1996年(平成8) 選手兼任ヘッドコーチとして全国社会人大会に臨むも
準々決勝で敗退 現役を引退
1997年(平成9) 日本代表監督に就任34歳
1999年(平成11) 第4回W杯に日本代表監督として臨み、3戦全敗に終える
2000年(平成12) フランス・アイルランド遠征での惨敗の責任を取り代表監督を辞任
NPO法人「スポーツ・コミュニティー・アンド・インテリジェンス機構(SCIX)」を旗揚げ。
理事長となってラグビーの波及や東日本大震災といった被災地支援に奉仕
2001年(平成13) 神戸製鋼のGMに就任。2007年から2014年までは総監督も兼任
2008年(平成20) 日本サッカー協会理事に就任。2010年(平成22)まで
2011年(平成23) 文部科学省の中央教育審議会委員に就任
2012年(平成24) ラグビーワールドカップ組織委員会理事に就任
2015年(平成27) ラグビーワールドカップ組織委員会の事務総長特別補佐、
日本協会理事に就任
2016年(平成28) 10月20日、京都市内の病院で他界。享年53

▲平尾誠二のフィールドを駆け抜けた軌跡を辿る【目次】

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平尾 誠二(ひらお せいじ)プロフィール

1963年1月21日-2016年10月20日。
180センチ、79キロ、京都府京都市誕生。
陶化中→伏見工(現・京都工学院)→同志社大→神戸製鋼。
伏見工主将としては全国高校大会初優勝。高校日本代表主将。
同志社大学4年時は、中村剛主将の下、当時史上初の大学選手権3連覇を達成。
大学2年時の1982年には当時史上最年少の19歳4ヶ月で日本代表入り。
NZU戦で初キャップ。神戸製鋼では1988年、入社3年目で主将に就任し、
全国社会人大会初優勝に輝いた。日本代表キャップ35。

昭和50年代、これまでにないラグビーブームがやって来ました。

早明戦、大学選手権、日本選手権が行われた国立競技場には、
6万人を超える観客が結集しました。

平尾誠二は、そんな時代に彗星のように出現します。
1980(昭和55)年度の全国高校大会の決勝戦は語受け継がれる名勝負。

伏見工業高校キャプテンの平尾誠二は肉離れで傷む足を引きずりつつも、
チームを初優勝にいざないます。

山口良治監督に抱きついて泣きじゃくる平尾誠二選手の姿は、
大人っぽいゲームリードとは違って高校生らしかった。

端正な顔、180センチを超す長身、50メートル5秒台の俊足、
グラウンドを俯瞰してみているかのごとき鮮やかなゲーム運び。

新しいラグビースターの誕生に、関係者、ファンの興味は
でかくなったといえます。

赤黒ジャージーの襟を立て、
フィールドを駆け回る平尾誠二は憧れていた存在。

同志社大学4年時は、負傷の中村剛キャプテンの代理として代行の任務に就き、
大学選手権3連覇を成し遂げます。

決勝戦の相手は上田昭夫監督率いる慶應義塾大学。
ラインアウトからカットインでタックラーをかわし、右タッチライン際を
駆け抜けたトライは何度見ても溜め息が出ます。

このシーズンの日本選手権(1985年、昭和60年1月15日)は、
全国社会人大会7連覇の新日鉄釜石と、大学選手権3連覇の同志社大学という夢の顔合わせ。

新日鉄釜石の松尾雄治、同社大学の平尾誠二といった
二人のゲームリーダー対決も大反響を呼びました。

27年後の2012年(平成24)NHKの「伝説の名勝負」という名の番組で
二人は試合を思い起こします。

高校、大学で日本一。
それ以後も平尾誠二はファンの期待に応じ続けます。

神戸製鉄では入社3年目にキャプテンになって、頭脳と創意工夫を加えて、
チームを社会人大会初優勝に導く。

「スクラムは脆弱ですし、プレースキッカーはおらんし、あるまじき勝ち方かもしれないが、内容には自信があるのです」と準決勝後の平尾誠二のコメント。

1989年(昭和64)1月7日、昭和天皇崩御。

全国社会人大会の決勝戦は順延することになるが執り行われ、
神戸製鋼は東芝府中を打ち負かして平成最初の王者に。

1990年(平成2)社会人大会連覇を成し遂げた神戸製鋼は日本選手権で
清宮克幸キャプテン率いる早稲田大学と対戦します。

試合前、平尾誠二はチームメイトに、「どっちみち勝なら叩きのめせ、しょうもない勝ちなら、そういう勝利は早稲田にくれてやれ」。

試合結果は、神戸製鋼 58-4 早稲田大学と、ぶっちぎりでした。

それ以後も勝ち走り続けた神戸製鋼が6連覇を成し遂げた後、
ラグビーマガジンは平尾誠二特集を組んでます。1994年(平成6)9月号。平尾誠二31歳。

「勝ちたいとは思うけれど、僕にしたらプレーすることにこそ、喜びと楽しみがあるから。いいラグビーをやりたいという思いの方が強いです。僕自身、中学でラグビーしだした時に感じられた、ボールを持って走る爽やかさ、満足感をいつになっても大事にしたいから」

自分自身が「天才」と評価されることに関しても語っていらっしゃいます。

「天才であれば、もっともっと楽できますよ。僕は天才でも努力家でもあるわけない。ラグビー愛好者です。ラグビーがとんでもなく好きで、自分自身がプレーするというのが好きなんです」

所属チームを勝利に導くもう一方では、
日本代表としての大車輪の活躍も驚異的な。

19歳で代表入りし、1989年(平成元)春、26歳でキャプテン就任。
1989年5月、スコットランド代表に勝利する快挙を成し遂げます。

1991年(平成3)には第2回ラグビーワールドカップでジンバブエから初勝利を挙げるであったり、日本代表の快挙の中においてはいつだって平尾誠二キャプテンがいるわけです。

ほろ苦い経験もやっているのです。1999年(平成11)ラグビーワールドカップ第4回ウエールズ大会は、監督となって日本代表を統括するが、プール戦4連敗。

2000年(平成12)のヨーロッパ遠征でアイルランド代表などに大負けし、責任を負う形で監督辞任します。この時にの平尾誠二はマスメディアからのバッシングを浴び、失意の底にあった。

それ以後は、神戸製鋼コベルコスティーラーズの監督、GMとなってチームの顔という立場で、NPO法人スポーツ・コミュニティー・アンド・インテリジェンス機構(SCIX)を発足させ、
スポーツの社会的、文化的価値を確かなものにする取り組みを続けるのです。

2019年のラグビーワールドカップ日本大会でも日本の顔となることになっていたが、
2016年10月20日、53歳の若い年齢で天に召されます。

中学校で楕円球に魅了されてからは、ひたむきに「ラグビーの平尾誠二」として生きたのです。

肩書きはなく、平尾誠二として各界の有名人と対等な関係で接してきたことが、
ラグビーの価値を向上させたことは疑いの余地がありません。

ラグビーだけに限らず、他の分野においても興味を惹かれると例外なく研究し尽くし、どういったものにもストーリーを見つけ出し、考慮することなく行動しない人であるというのです。

男性化粧品のコロンのコマーシャルに出演する際に、「俺が一番最初に使用した香水やったんや。こういうのも何かしらの縁やと考えてな。そのことがなければ引き受けないよ」

ファンに思いやりのある笑顔で触れ合う一方では、部下に対しては厳しかったらしいです。

SCIXで平尾誠二配下で勤務した武藤規夫は「なにをやっとんねん」と幾度となく叱られた。
亡くなられた時「もう一度叱られたいなぁ」と。

歯に衣を着せぬ言葉に愛があったからだと考えられます。
平尾誠二は、自分自身の思考を自由に表現することができるラグビーを愛したのです。

それがあるので、構造を深く考慮し、時代の先を行く戦法、分析方法を追い求めました。

中学校時代にボール磨きが好きでしたというようなエピソードがあるのです。

「次の日までに、ボールをピカピカにしてなければいけないのだが、そうすれば、ボールを持って帰るということです。中学生からしたらボールは高価格だったから買えませんでした。それもあって、持って帰ると、仲よしとそれで遊びました」

それこそが原点だったのです。
平尾誠二は、ボールを持って走る喜びを抱き続け、昭和から平成を駆け抜けました。

日本代表監督となって構築した情報分析の戦法は、日本サッカー協会だけじゃなく、他の競技に広がっていきます。

スコットランドから初勝利を挙げたのは1989年(平成元)、主将となって相手にトライを1つしか許さなかった日本のディフェンスを試合が終わった後に讃えます。

社会人1年目にはイングランドに留学し、リッチモンドでレギュラーになってプレー。

▲平尾誠二のフィールドを駆け抜けた軌跡を辿る【目次】

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