ラグビー ウェールズ

スポンサーリンク

クリックで拡大
ラグビー ウェールズ
出典元:https://www.londonnavi.com/play/65/

ウェールズでは17世紀初頭にペンブルックシャーの2つの村で開かれたゲームが
ラグビーの起源とのことです。

「五郎丸ポーズ」が話題になった2015年、イギリスで開催された
ラグビー・ワールドカップ(W杯)で、日本代表チームが強豪南アフリカに勝利し、
「史上最大の番狂わせ」と報じられたのです。

その次の年、カーディフでの対ウェールズ戦は、僅差で敗れはしたけれども大接戦、
7万人の観衆から拍手喝采を呼んでいます。

2019年ラグビー・ワールドカップ(W杯)の開催の
日本国内では大変なラグビー熱が生まれているのです。

この数年で、日本のラグビーはいきなり世界中から注目を集めるようになっていますが、
ラグビーの老舗となりますと、ウェールズ。

ラグビーの聖地でしたらカーディフ。
遠いむかしから、各地で村民が大勢やって来るボールゲームが行われていたのです。

ラグビーの起源というものは、あるかぎりの手段によって、
敵方村にボールを運び込むことを阻むというゲームだった。

延々何時間にも渡って丘や谷、川を越えて続けられ、
最後は何百人の住民が満身創痍になって、笑いながらも家路に着いたそうだ。

近代的なラグビーであれば、イングランドのラグビー校の
エリス少年がボールを抱きしめて走った1823年に始まるといわれているようです。

ウェールズに伝えられたのは1850年頃で、1870年代には各地でクラブが結成されて、
19世紀末にその数は70以上に達します。

このころラグビーは大英帝国諸国やヨーロッパ各国にも拡がっていきます。

1871年に全英組織、ラグビー・フィットボール・ユニオン(RFU)が結成されて、
その支部が1873年にはスコットランド、翌年にはアイルランド、
そうして1880年にはウェールズでも、
ウェールズ・ラグビーフットボール・ユニオン(WPU)が立ち上げられます。

ウェールズでラグビーがどのようにしてフィーバーさせるかに関しては、
ちょうど甲子園球場での巨人戦を打ち負かしたシーンの阪神ファンの
風船飛ばしと「六甲おろし」の大合唱をイメージしてください。

カーディフでの対イングランド戦でウェールズがイングランドを打破すると、
スタジアム全体が歓喜の渦に巻き込まれ、ウェールズ国歌「我が父祖の地」のみならず、
ウェールズ人の愛唱歌がぶっ続けに響き辿り着くらしい。

どういうわけでウェールズでラグビーが文化の一部分といわれるくらい、
熱狂的スポーツとなったのでしょう。

間違いなくウェールズでもラグビーは、始めたころはアカデミックな世界で、
エリート階級の人々を通じて持ち込まれました。

1881年の対イングランド戦でのメンバーのほぼすべては
パブリック・スクールやオックスブリッジ出身者で占められていたようです。

カーディフで開かれたこの試合では、ウェールズチームは気の毒にも82対0でボロ負け。

けれども、それから9年後の1890年、イングランドに生まれて初めて勝った状況での
メンバーは大半が労働者階級の若年層で占められていたわけです。

ウェールズではラグビーは、一部分のエリートのものとしてではなくて、
庶民スポーツとなって根付いていくようです。

それは、競技場とボール、それと2本の支柱さえあるなら、誰だって参加できて、
差ほど費用もかからないで、技術的に割りと難しくなく、
過酷な肉体的な労働で鍛え上げた炭鉱や鉄鋼労働者にピッタリのスポーツだったのです。

確固たる団結心が必要とされ、騒がしいケンカといったこのスポーツは、
かつての勇猛な戦士であったころのケルト人の反骨精神を呼び起こさせ、
ウェールズ人の愛国心に訴えかけます。

ウェールズがいつでもイングランドやそれ以外のチームより強力だったわけではないです。
少なくても、1880年代の導入期には、イングランド、アイルランド、スコットランドの間で
開かれた連合王国間の試合では、連敗に次ぐ連敗だったのです。

一番初めの黄金時代は、ミレニアム・スタジアムが建設される100年前に幕が開く。

1900年から1911年に及んでの12年間、43試合中36回も勝利を収め、なおかつホームで敗れたのはわずかに1度だけ、この時期にウェールズは、1906年アイルランドと同率1位であったのを含めれば、実際7度も全英チャンピオンに輝きます。

この時期は南ウェールズ経済の黄金時代だとも言えます。完成度が高いスチーム炭を満載し、
カーディフ港を出港した不定期貨物船は全世界の隅々に石炭を届け、
ロンダやアバデアなどでは20万人以上という労働者が炭鉱に勤務していました。

たしかに、炭鉱業が不振をもたらした第1次大戦後一時的に、
ウェールズのラグビーも沈滞を極める。

しかしながら、第2次大戦後、
新たなるいびきが吹き込まれ、沈滞ムードは吹き飛ばす。

1955年にカーディフが公式にウェールズの首都とされて、
不況地域に新たなる産業が移転されるのです。

それまでスウォンジャーやニューポートで行われていたラグビーの試合も
カーディフに集中されるようになったのです。

航空機の発達につれて、ラグビーにもグローバリゼーションの時代が登場します。

戦時中、中断されていた全英試合も再会され、フランスもリーグ戦にレースに参加して、
過去の大英帝国諸国間の国際試合もヒートアップします。

最たる黄金時代は1960年代後半から70年代に訪れます。

1975年から1979年にかけてウェールズは1977年を異例として
ファイブ・ネーションズカップ(国際リーグ戦)のチャンピオンに輝きます。

黄金時代のヒーロー、バリー・ジョン、ガレス・エドワーズ、J・P・R・ウィリアムズというような大スターは、ウェルズの谷では今になってもレジェンドとして語継がれているのです。

ラグビーの殿堂と言ったら、カーディフなのですが、ウェールズでラグビーの試合が
スタートした始めのうちは、ニューポートやスウォンジー、
時としてスランネスリでも全英リーグ戦が行われていたのです。

20世紀ともなればカーディフとスウォンジーに集中するくらいになる、
カーディフがウェールズの首都となった1955年に、
WRUはホームとしての試合をすべてカーディフで行うことに決めます。

カーディフにおけるラグビー競技場は市の中心部、タフ川のほとりに見られ、
長年アームズパークという名で知られる。

その名は、近くの馬車宿、カーディフ・アームズ・ホテルから来ていて、
この町の大地主であったビュート候があたりの沼地をレクリェーション目的のために
自治体に提供したことに由来いたします。

ウェールズ代表チームはここで一番初めの試合を行ったのは1884年で、
それから、ラグビー人気のレベルアップによって、幾度となく改築され、
収容人数も増えていき、最も大きな転機は1999年にやってきます。

ウェールズでのワールドカップ開催ということで新築した、
競技場はミレニアム・スタジアムと改名が行われ、ラグビーやサッカーという球技に関係なく、
多目的イベント会場となって、コンサートといったイベントも提供されることになって、
現在ではナショナルスタジアム・オブ・ウェールズ、
プリンシパリティ・スタジアムとも呼ばれているのです。

スポンサーリンク